とるにたらないものもの
最近、エッセイを2冊拾った。
詳しくは語らないが、ともかく拾ったのだ。
一冊は、穂村弘「もしもし、運命の人ですか」
もう一冊が江國香織の『とるにたらないものもの』
輪ゴム、煙草、焼き鳥、愛称、カクテルなど
なんでもない身近なものを江國香織の子供の頃の記憶から紡ぐ、
江國香織がどんな風にものごと見えているかを語るエッセイだ。
このとるにたらないものを語るエッセイってすごくいいなぁと思った。
自分の好きな人がとるにたらないものものをどう見えているのか
少しでもその片鱗を知れたら嬉しくなる。
その紡ぐ言葉が美しかろうが美しくなかろうがさして問題ではない。
どんな風に世界を見ているかが少しでもわかる気がするから。
気に入った文章を一部引用してみる。
自分の感覚に落とし込むため。
お風呂
ある二月の朝、私は結婚して家を出たのだが、そのずいぶんと美しく晴れた朝に、玄関で母が私に言った言葉は、「これでもう朝起きて、生きているかどうかたしかめにお風呂場にいかなくてすむのね」だった。「ほんとうに、両生類を飼っているみたいだった」と、しみじみ述懐する母に見送られ、私は家をでたのだった。
それまで、私は毎晩お風呂で眠っていたついうたた寝をしてしまうなどとうものではなく、五時間から八時間、場合によってはそれ以上の時間、バスタブの中でぐっすり眠っていた。バスタブが私のベットだった。
家中で一ばん早く起きる母が、毎朝、すりガラスで中折れ式の扉ごしに「おはよう」と声をかけてくれていたのが、「生きているかどうかたしかめ」るためだったとはつゆ知らなかったが、ともかくあのころの私は、たしかに両生類なみの生活をしていた。
子供のころからお風呂は好きで、小学校の夏休みには、「お風呂プール」と称して、妹と二人で水着を着て、ずっと前日の残り湯につかっていた—―
お昼になると、母がおむすびをさし入れてくれたーーものだけれど、バスタブで眠る習慣がついたのは私一人だった。
自分のうちのお風呂場でお湯につかっているときの、開放感と安心と幸福は計り知れない。お湯というものの質感、そして、湯気の匂い。私は度が好きだけれど、どこにでかけても、お風呂を思い出すとバスシックになる。
お風呂の中では本を読んだり考え事をしたりしている。考えごとのけっかであるところの「決心」は、だから全部お風呂の中だ。小説のタイトルも結末も、私自身の行動もーー旅にでよう、とか、結婚しよう、とか、離婚しよう、とか、やっぱり離婚は辞めよう、とかーー、みんなお湯の中で決めた。
結婚してから出来るだけお風呂で眠らないように気をつけてはいるが、それでも極端に長風呂なので、私の入浴は、夫に、籠城、と呼ばれている。
確かめに→たしかめに
扉越し→扉ごし
家中で一番早く→家中で一ばん早く
あの頃、子供の頃→あのころ
といった漢字とひらがなの使い方、「、とかーー、」といった記号の使い方など普通に呼んでいると気づかないようなこだわり、工夫がちりばめられていることに、書いてみると気づく。
お風呂エピソードの利便性
お風呂はその人固有のエピソードがかなり高い確率であるように感じるから、その人の「お風呂感」を知ることはとても親密になった証になると思う。
他にも、「もの」似たいする感覚は子供の頃の第一印象によっている部分、家族の影響がよくよく思い返してみると強いと感じた。
親密になりたいときは「お風呂」の話を切り出すと便利だと思ったし、
それで話してくれたら仲良くなったバロメータになると思う。